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鮭釣りの歴史

標津町におけるサーモン・フィッシング

・標津と言う町...

北海道東部にある人口約5980人(H20年)、農業と漁業関連の仕事に関係する人が50%以上を占める北海道に良くある小さな町です。しかしながら他所の町と大きく違うところは、毎年のように日本国内で水揚げされるサケの6〜10%の水揚げを常に維持していることでしょう。標津町の市場で国内産のサケの価格が決まると言っていいほどの漁獲量です。町内には、7河川が流れており、このうち5河川でサケ・マスのふ化事業が行われています。北海道でのサケの回帰率は約3%前後と言われて居ますが、標津町ではこの数字を遥かに上回る12〜14.5%もの回帰率を毎年維持しています。この背景には、豊かな水資源とそれを有効に利用した国内最高水準の増殖技術を誇っているからです。


産卵中のサケ 忠類川では秋季中毎日、見慣れた光景...

・サケ釣りの歴史...

これだけのサケが回帰してくる標津町は、昔からサケ釣りの本命場所として北海道の中でも注目をされて来ました。昭和57年に釧路の隣町、白糠町近くの海岸で、たまたま投げ釣りをしていた仕掛けにサケが食いついたことから北海道各地で海岸でのサケ釣りブームが、起こりました。サケ が大量に回帰するのが知られていた標津町にも海岸を埋め尽くす程の釣り人が北海道各地から押し寄せ野付半島から薫別海岸までの30数キロメートルに及ぶ海岸線が、すべてサケ釣り場と化したのです。この時から釣り人は、地元の人達にとって招かざる客として受け取られるようになってしまいました。違法駐車、夜中・明け方の騒音、ゴミの投げ捨て等、数え切れない程の苦情が関係する所に寄せられました。こうなると「サケ釣り反対」と言う声が、各所から上げられるようになってしまいます。また入釣することが出来ない釣り人は、遊漁船に乗り込み沖合いから沿岸部を回遊してくるサケを釣り始めました。10人程度の乗合で一人 あたり20尾以上の釣果等、当たり前の感覚でサケ釣りをしていたのです。当時は、定置網の解禁期間が遅く沿岸部には、海に定置網の無い状態が1週間も続き数十万匹のサケが回遊している状況だったのです。1キャスト・1ヒットは当たり前。時には、針が3本付いた胴付き仕掛けの針すべてにサケが食いつくこともありました。この状況だと漁業者からもクレームが付いて当然です。この状態はサケ漁の設定によって年を追って減少してきましたが、ルールやマナーを守れない釣り人が後を立ちませんでした。当然のように漁業者自体も「サケ釣り規制の強化」を求めて運動を展開します。地元に居る釣り人は、非常に辛い辛抱を強いられてしまいます。


釣り船による国内初の公式サケ釣り大会・ALL-JAPANサーモンダービー
現在でも大会の復活を望む声が多い...


カナダから駆付けてくれた盟友であるカナダBC州サーモンダービーの元実行
委員長だったジム・C・マ−レ−氏

・標津町で開催されたサーモン・フィッシング...

このことを打開しようと1988年に「ALL JAPAN・サーモンダービー」と言う船釣りの大会を計画する動きになって行きます。 色々なルールを定め1日-1人あたり最大5尾までのバッグリミットを設け、釣りあげた1尾のサケの重量で優悦を競う大会形式 でした。ルールが無い時代にサケ釣りにルールを持ち込んだ、サケ釣り大会は、当時の釣り人には「規制容認」の釣り大会として映り、大反発がありました。 しかしタイミング的にも北海道庁が「サケ釣りのルール化」を打出し、その先駆けの事例として、この大会を公式に認めてもらうことにな り、開催に向かいます。しかし漁業者としては、「以前のように数千匹ものサケを釣られるのでは?」と言う危機感が常に有り実際に大会を終了するまでは、信じてもらうことが出来ませんでした。 第1回目の大会が終了し正確な釣果尾数は、参加者1人に対して1匹にも満たない数字だったのです。この大会の前年まで続いていた遊漁船の密漁行為 や定置網に引っ掛かる釣針の数も激減し漁業と釣りが調和していける大会として漁業者に受け入れて貰う事が、出来るようになりました。その翌年、漁業者側からは、影ながらの配慮として定置網解禁 前の大会開催や漁協市場を大会会場として提供してもらう、また漁協婦人部によるアキアジ鍋の提供など、全町を挙げての協力体制を取って来たのです。


-サーモンダービーの顧問、俳優 故-根津甚八さん、天龍会長-塩沢さん、故-西山 徹さん-


-優勝賞金や豪華な商品でも目を引く大会-

・忠類川サケ・マス有効利用調査への道程…

標津町では、過去の経緯のように本来対立しても不思議では無い「遊漁と漁業」が、共存して 行くための方法が、早くから取り入れられていたと言って良い状況にありました。1995年になって国策として実施されていたサケ の孵化増殖事業のリストラとも言える北海道内各河川において孵化施設の合理化が始まります。標津町でも、町内を流れる忠類川と古多糠川が、この 合理化の対象となったのです。この孵化事業の合理化と言うのは、各河川で実施されていた川に遡上して来た親サケの捕獲を中止するという内容です。捕獲をしなければ、当然のようにサケ・マスは、河川の上流まで遡上をします。川を管理していない状況では、 河川内での密漁が横行し手の施し様が無くなると言う懸念が生まれてきました。仮にこのようになった場合には、「サケの町・標津」と「サケ」の 両方が大きなイメージダウンを受けてしまう可能性が含まれていたのです。「忠類川のサケを釣り(遊漁)で利用したらどうだろう?」この 事は、サケで生活をしている漁業者から私達、釣り人側に対しての呼び掛けとして計画の立案が始まりました。


-川に遡上し婚姻色が出たサケのオス-

北海道の釣り人は、昭和50年代より道内河川での「サケ釣り開放」を水産行政に訴えていました。 しかし長年の懸案事項だったサケ釣りが釣り人と相反する事が多い漁業側から提案されるとは思いも寄らない事だったのです。こうして忠類川でサケを釣るための第一歩が始まりました。河川流域を細かく検証し、釣り場となる場所の選定や管理棟、駐車場の設置場所。管理システムや募集方法、調査規則等の 解決する必要がある問題が山のようにありました。これらの諸問題を一つずつクリアしていくためには、かなりの時間 を要したのです。また併せて最大の問題となったのは「国の法律で一般の人が、獲ることが禁止されているサケ」を漁業以外の釣りに 適用する事だったのです。この問題は最初から越えなければならない特別事項として判っていました。この通称−特採(特別採捕)と呼ばれている調査の意味を最大限以上に噛み砕いた中でようやくGOサインが出たのです。


-忠類川から望む武佐岳-

開始当初は、釣人からすると「キャッチ&リリース」が、含まれていない等、不思議に思うことが多くありました。これは「調査事業」として実施 されているからです。当初、計画の段階では、釣り人にとって「かなり実体とは違う内容」の規則原案でした。 その規則も年を追う毎に改変され、現在では、ルアー/フライ区間の設定、またギャッチ&リリース区間の設定などサケを通して考えられる釣り場と資源の関わり方に最大限考慮したシステムが取り入れられています。今になると笑い話に聞こえますが、 初年度は「500人集まらなければ大変だ」と言う事で関係者全員が苦悩することも何回もありました。

他の事業でもそうですが、 参加者として行事に参加するのが一番楽しいはずです。忠類川でのサケ釣りは、多くの人が見えない所で忠類川に訪れる人達に「楽しい思い出」作ってもらう ため、裏方として「サケ釣りを思い出として残してもらうために…」「喜んでもらうために…」努力しています。 忠類川に取り入れられたシステムとして町役場、漁協、遊漁団体がスクラムを組み、それぞれの役割分担をしながら、この事業に取り組んで います。それを取巻く町内の各団体もより広いバックアップ体制を敷いています。このことも忠類川を支えている条件の一つ なのです。


-サケ釣りの醍醐味、サケとの格闘  忠類川プロジェクト 三浦氏-


-フライロッドの限界、ロッドが折れる事も...山形県在住・柳沼氏-

・これからの忠類川が、目指すこと...

このように忠類川では、10年以上にも渡る経緯を辿って「日本の川でサケが釣れる」ようになったのです。「サケが余っているから…」「 サケの値段が落ちたから…」と言う訳ではありません。複雑な要素が絡み合い、また町全体の信頼関係の基で、ようやく実現出来たと言って良いでしょう。世界中で「サケ釣り」と言えば、釣りをしない人でさえ知っている釣り のジャンルです。そのサケ釣りが「日本でも出来る」(アジア地区で唯一)意味の大きさは、計り知れないでしょう。また標津町の経済を考えて行く上でも 外す事は出来ない存在になっています。標津町では「釣り人の里構想」と言うプランが、具現化しています。港を利用した釣り公園や忠類川などを含め、釣り人にとってのフィールドを最大限生かしていこうと言う取り組みです。 全国各地で展開されている「釣りとフィールド」の関わり方と重要性が、これから大きなテーマとして各地にたくさん生まれてくるでしょう。 また色々な地区でサケ釣りが行われると思われます。その時にも先駆者としての役割を忠類川が果たして行くと思います。

忠類川サケ・マス有効利用調査実行委員会 副実行委員長 藤本 靖

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